「しなければならない」という生き方☆
今日は、ちょっと真面目な話をしようと思います。
世の中には、「~なければならない人間」と「~したい人間」がいると思う。物事をするとき、「~しなければならない」とする人間と、することは「~したいからする」人間。もちろん、すべて両極端なわけではなくて、「~しなければならない人間」もしたいから動くことはあるし、「~したいからする人間」もしなければならないことだからすることもあるだろうし。ただ、やはり、このように書くと、「~しなければならない人間」は、楽しいことを見つけられないような、いつもやらされているような印象になる。だが、果たしてそうだろうか。私は「~しなければならない」からする人間だ。昨日、そんな自分を否定された気持ちになったのだけれど、「~しなければならない」と生きていくことは、そんなつまらない生き方なのだろうか。
私にとっての「~しなければならない」という生き方というのは、
・引き受けたからには最後までやり遂げなければならない
・授業をやるからには過半数が理解できる授業をしなければならない
・担任を持つからには彼らを少しでも多く合格させなければならない、合格してほしい
などという仕事のものから、
・出かけるからにはきちんとした(かわいい)格好でなければならない
・女である以上美しく(かわいく)あらねばならない
とか、そういうことまで、本当に色々。最後の1行は、私の限界が1番見えやすい項目ではありますが(笑)
「~しなければならない」という生き方は、確かにそうであれなかったときに、苦しくなる。不満が増えそうな気もする。だが、それはそれだけモチベーションや自分のよしとするラインが高いからでもある。やらされている「~しなければならない」ではなく、自分が「~であらなければならない」「~できていなければならない」とする「~しなければならない」であるなら、それは決して否定的な言葉ではない。
「~したい」という生き方のできる人は素直に羨ましい。だが、彼らにとって「したくないこと」をするのは、「~しなければならない」人がするよりも苦しいことに違いない。何に重きを置くか。そして今までどのように育てられ生きてきたか。それによって、何をよしとし、何がつらいことなのか違ってくるものなのだろう。
ただ1つ、「~しなければならない」人たちの落とし穴は、基準のラインを設けるのも、それによって自らをチェックするのも自分自身だ。厳しすぎるのも甘すぎるのも違う。チェックするというのは、以前に比べてどうかを見つめることだ。決して今を否定して、ラインを引きなおすことではない。また、うまくできた自分が自己満足に陥らないように気にしなければならない。これだけやった、というのは所詮自己満足にすぎない。自己満足行為によってうまれた結果にも気を配る必要がある。
「~であらねばならない」と思えるなら、「当然そうあるべき」と思うなら、それは現在の「否定」ではなく、その物事に対する未来への「肯定」だ。うつむいていた、昨日の自分に、そう声をかけたいと思った。

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